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招魂場碑
官軍総督清水谷公考の揮毫ともいわれている。この石碑は高田屋の亀石ともいわれており、高田屋嘉兵衛が、ある年の暮れに仕事がなくて困っている人々に賃金を払って、近くの住吉の海中から大石を引かせて引き上げたもので、亀の形をしていることから亀石といわれている。
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陸海軍戦死者人名碑
戊辰戦争において新政府軍と旧幕府軍の最後の戦闘であった箱館戦争で戦没した将士の人名を刻んだ碑。
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旧官修墳墓(新政府軍の墓)
明治戊申己巳の役で戦没した弘前藩、大野藩、備後福山藩等の将士を葬っている墓。
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戊辰薩藩戦死者墓
戊辰戦争で戦没した薩摩藩の将士を追悼する墓。
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明治戊辰己巳海軍戦死者弔碑
明治元年(慶応元年)、2年の五稜郭戦争において、当時の新政府軍艦船であった甲鉄艦、朝陽艦、春日艦、飛龍丸で戦没した将士の弔碑。
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二十七八年戦役 従軍烈士弔魂碑
明治27、28年に日本と清国との戦争で戦没した将士の弔碑。
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少年海員の碑
昭和16年5月、日本海運報国が函館市の協力で函館普通海員養成所を開設し、後に船舶運営会に継承され、昭和20年8月の終戦となった。
この間、卒業生にして戦時の海上輸送に挺身した若人は2,000名を超え、そのうち120名は帰らぬ人となった。また、国鉄函館船員養成所の生徒14名も戦死した。これら少年海員を偲び、御霊安かれと祈った碑。 -
鎮魂碑
太平洋戦争中、南太平洋地区、西イリアン、東ニューギニア・ソロモン群島周辺で戦没した将士の慰霊碑。
そばの自然石の歌碑には次のとおり記されている。
「 わが立てる臥牛の山は低くして南海は見えず吾子はかえらず 」
北海道 正木安子
「 この果てに君ある如く思われて春の渚にしばしたたずむ 」
丹野きみ子 -
帝国海軍駆逐艦「橘」鎮魂の碑
昭和20年7月14日午前5時、青函連絡船及び船舶の護衛の任務にあたっていた駆逐艦「橘」(1,260トン)は、来襲した敵機約100機の襲撃を一手に引き受け、湾内、湾外に勇戦奮闘し、敵機6機撃墜、1機撃破したが、午前6時53分葛登支岬灯台(北海道北斗市)の90度2分に沈んだ。乗組員280名中、戦死者140名、戦傷者31名を悼む慰霊碑。
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「大地への献身」の碑
太平洋戦争末期に農家の人手不足及び緊急食糧確保のために全国から北海道に来た学徒援農隊を記念する碑。
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偕行会記念碑
昭和55年11月3日に函館地方偕行会が結成30周年を記念して、戦中、戦後の困難な時代状況の中で幾山河越え来る往時をしのび、誓いを新たにするために建立された。
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阿部たつを歌碑
阿部たつを氏は、大正、昭和にわたり函館で小児科医として活躍するかたわら、函館護國神社の献詠和歌の撰者であった人。
「 人恋し遠山の雪ほのぼのと春の夕日に茜さす頃 」 -
本庄登志彦の句碑
本庄登志彦氏は、昭和3年北海道函館市に生まれる。昭和19年齋藤玄主宰「壷」に入門し、昭和58年「壷」、「風土」同人を経て、「双眸俳句会」を結成、主宰となる。この句碑は、平成15年7月に双眸俳句会20周年記念して建立された。
「 函館は 海に浮く町 秋ざくら 」 -
阿部慧月の句碑
阿部慧月、本名は冨勇。明治38年十勝に生まれる。大正15年ホトトギスに投句、爾来高浜虚子に師事。昭和46年に函館ホトトギス会を結成。
「 いわし雲 港の景は 暮れにけり 」 -
童謡「チューリップ」の歌碑
人間には、それぞれの良さ、美しさがありことから個性を大切にし、特に弱い人たちに寄り添う気持ちを大切にしたいという意味といわれている歌碑。